「美鶴っ!」
瑠駆真の叫び声。駆け出す音。美鶴は両手を相手の胸に当て、思いっきり押した。
だが押す前に、唇は唐突に離れた。呆気に取られる暇もなく襟首を無遠慮に捕まれ、身体を引き剥がされる。後ろに引っ張られヨロける背中に手を当てられ、今度は反対に押し飛ばされた。
引っ張られ、突き飛ばされる。
ワケがわからず目を回す美鶴は、自分が今どこをどのように歩いているのかもわからず、実際に歩いているのかどうかもわからず、そのまま別の何かにぶつかった。
「小童谷、貴様っ!」
叫び声で、それが瑠駆真の胸板である事がわかった。だが、判ったところで美鶴には何もできない。
何? 何? 今の何?
瞠目したまま、瑠駆真に抱き留められるままに呆然とする美鶴。そんな少女を両手で支え、瑠駆真は相手を睥睨した。
「小童谷、何を―――」
その先は怒りで言葉にもならない。
見せてやる。
不敵に笑われた。そうして見せられた。
美鶴の唇を目の前で―――
「お前」
怒りに震える瑠駆真に、陽翔は鷹揚な仕草で唇を拭った。明かりに艶めいて婀娜っぽい。
「柔らかい」
余韻を堪能するかのように感想を述べ、瞳を細める。
「それに、舌の動きも良かった。大迫、お前、キスをするのはこれが初めてじゃないよな?」
美鶴は黙ったままギュッと瑠駆真の服を握り締める。
「好きな男としたのか?」
瞳もギュッと閉じる。
「好きな奴、いるんだろう?」
「好きな男の情報を、知りたいとは思わないか?」
そんな言葉に釣られたのだ。いると告げているようなもの。
「こんなにあっさりと引っかかるなんて、大迫、お前、その男に相当入れ込んでるな」
耳を塞ぎたい。
「相手がいったい誰なのか、是非とも知りたいものだ」
「好きな人なんていないっ」
かすれる声で悪足掻きのように反論する。瑠駆真はその肩を抱きしめ、吐き捨てる。
「小童谷、何のつもりだ。これはどういう事だ?」
説明によっては一発殴っても気が済まない。いや、説明などいらない。
今にも飛び掛りそうな相手に、陽翔は笑う。
「メールをしただろ? おもしろいモノを見せてやるってね」
「だから、それがどうしてこんな」
「だから見せてやったのさ」
遮るように語調を強める陽翔。
「好きな女がキスをする時にどんな顔をするのか、をね」
指で唇を摘む。
「お前、この女とキスをした事があるか?」
そうして、瑠駆真の返事など待たずに口の端を上げ、顎も上げた。
「美味いぞ。意外だ。お前が目を掛けたにしてはいい女だ。金本って奴と取り合うのも、わからんでもない」
「貴様っ!」
「お前は俺から初子先生を奪った。だから俺もお前の物を奪ってやっただけだ」
「なんだとっ」
「そもそも、お前がしっかり見張っていないからこんな事になる。お前、本当に大迫の事が好きなのか?」
そうだ、強く想っていれば、大事に護っていれば、好きな相手を他の誰かに盗られるなんて失態は犯さないはずだ。強く強く、純粋に、一途に、拗む事無くただ真っ直ぐに。
じゃあ、どうして初子先生は俺の傍にいないんだ?
違うっ! 先生はいつでも俺の傍に居る。もう先生を誰かになんて奪われたりしない。俺はいつでも、いつでも先生を見ている。ただ直向に。そして先生だってきっと、きっと俺を見てくれている。俺だけを―――
「本当は大して好きでもないんじゃないのか?」
「勝手な事を言うなっ」
「そのわりには、ずいぶんあっさりと盗まれてるよな」
「美鶴は物じゃないっ!」
激しく言い返す相手の言葉などはせせら笑い、唇を弾いて一歩後ろに下がる。
「物かどうかなんて事は、大した問題じゃないのさ」
強いて問題を挙げるとするならば、大迫美鶴とのキスがとても美味かった、という事かな。
「ご馳走サマ」
ニヤリと笑い、突然に背を向けた。そうしてアッと言う間に闇に身を投げる。
「小童谷っ!」
呼び声などはお構いなし。小童谷陽翔はそのまま姿を消してしまった。
「小童谷」
何だったんだ?
姿を消した暗闇を睨みつけたまま、さらに強く抱きしめる。息苦しさに呻き声をあげるその声に、ようやく瑠駆真は我に返った。
「美鶴」
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